平安~室町時代(1)

ウェブ番号1003977  更新日 2021年2月10日

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平安~室町時代(1) 厚東氏の時代

物部氏を遠い祖先とした地方豪族で、平安時代後期(西暦950年頃)厚狭郡東部に本拠地を置いて勢力を拡げ、「厚東郡司」と名乗るようになったと思われます。

2代武基は厚東地方で最初の八幡宮である「恒石八幡宮」を棚井に創建、3代武通は「持世寺」や上宇部の「川津寺」、4代武綱は東岐波古尾の「加保八幡宮」、万倉の「宗像大明神」、5代武仁は厚南黒石の「松江八幡宮」、6代武晴は山陽小野田市小野田の「万福寺」、7代武光は「琴崎八幡宮」を創建するなど、建立された寺社からもその勢力範囲が、西は小野田・楠から、東は阿知須・佐山に至るまで広範囲にわたっていることが分かります。

7代武光は、壇ノ浦の戦い(1185年)で源義経を援護して名声を馳せ、平家が滅亡し鎌倉幕府が開かれると、厚東氏は幕府御家人となり、長門国における地位を確保し長門屈指の武士になりました。

14代武実は、鎌倉幕府討幕に参加し、「建武の中興」(1334年)にあたりその功績により長門国守護職に任ぜられました。以後も足利尊氏を助けて勢力を拡大し、長門国をまとめ厚東棚井を本拠として、厚東氏は黄金時代を迎えます。武実の子15代武村も、建武の中興に働き、企救郡(北九州市付近)を領地として与えられました。

武実は優れた武将であるだけではなく信仰心もあつく、建武2年(1335年)棚井に「浄名寺」を創建し、また建武2年(1335年)には、「持世寺」を再興して土地を寄進しました。持世寺に田畑を寄進した時の書状「厚東武実寄進状案(ことうたけざねきしんじょうあん)」(持世寺文書)は、漢字の『宇部』という地名が、最初に出てくる史料としても貴重です。

また、京都の高僧南嶺子越を招いて、暦応2年(1339年)に「東隆寺」を創建したことも武実の大きな業績の一つで、東隆寺には重要文化財や県・市指定文化財など中世の貴重な史料が数多く伝わっています。

その後も15代武村、16代武直、17代義武と長門国守護を務め、厚東氏は隆盛を極めましたが、義武の時、周防国守護の大内弘世が来襲。義武は霜降城に立てこもりましたが、正平13年(1358年)正月、遂に霜降城は、落城し、厚東氏約400年の歴史の幕が降りました。

持世寺文書については、以下のページに詳しい説明があります。

霜降城(しもふりじょう)

治承3年(1179年)、厚東7代武光の築城と伝えられます。霜降城は南北約700メートルにわたってそびえる、標高約250メートルの霜降山の三連峰上に築かれた山城で、南から前城・本城・後城と呼ばれています。当時の山城には石垣等はなく、地形を利用して砦をつくり、戦がある時だけ立てこもっていました。

城の遺構は、本城には南西側を囲むように長さ約40メートル、幅約16メートル、深さ4メートルの空濠が造られています。空濠から出た土砂は空濠の前面に盛られ、大型の土塁を形成しています。前城にも半径約25メートルの空濠が、約110メートルほど造られています。厚東氏滅亡後は城として使用されず、南北朝時代の山城の景観が良く残っています。(山口県指定史跡)

霜降城については、以下のページに詳しい説明があります。

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