建築家、村野藤吾と宇部市

ウェブ番号1004737  更新日 2021年2月26日

印刷大きな文字で印刷

渡辺翁記念会館は、建築家、村野藤吾(1891~1984年)抜きに語ることはできません。彼自身、記念会館は「私の出世作」と話しています。93歳で亡くなる直前まで、旺盛な創造力で建築の最前線にいた村野は、今でも多数の設計作品が全国に残り、高い評価を得ています。

村野が記念会館の設計を担当したきっかけは、そごう百貨店の鉄骨部門を請け負った松尾橋梁株式会社の松尾社長が、記念事業委員会の一人、俵田明(沖ノ山炭鉱社長、後の宇部興産株式会社社長)に村野を推薦したことが始まりです。全面的に設計を任された村野は、生来の資質を存分に発揮し、近代建築史に名をとどめる会館を作りあげました。後年、村野は「本当に忘れ難い恩人です」と、俵田に感謝の言葉を述べています。

記念会館の縁で、村野設計の建造物が続々と宇部市に誕生します。1939年から1953年までの間に、宇部銀行(現旧宇部銀行館)、宇部窒素工業(現宇部興産ケミカル工場事務所)、宇部油化工業(現協和発酵)、宇部興産中央研究所、宇部興産事務所が完成しました。短い八幡製鉄の勤務期間から、身をもって苦しい工場生活を体験した村野は、「工場も美術建築である」との信念を持っていました。そこに人間がいる以上、美術建築であるべきと考えた村野の建築理念は、記念会館の細部の意匠にもよく現れています。

1979年竣工の宇部市文化会館に続き、1983年竣工の宇部興産ビルが、本市での最後の仕事になりました。他にも、宇部図書館、宇部商工会議所、宇部鉱業会館等、日の目を見なかった建設計画が、大阪の村野・森建築事務所に保管されています。これらの関係資料から、宇部市にことのほか愛着を感じた、村野の思いを伺い知ることができます。