渡辺祐策翁と記念会館

ウェブ番号1004735  更新日 2021年2月26日

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宇部市渡辺翁記念会館は、宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳を記念して、翁の関係した7事業各社の寄付を得て、1935年10月着工、1937年4月に竣工(供用開始7月)しました。記念会館は著名な建築家、村野藤吾設計の傑作として国内外に広く知られた建造物で、1997年6月には国の登録文化財、2005年12月には国の重要文化財に指定されました。宇部市の貴重な文化遺産であり、芸術文化活動の拠点施設である「渡辺翁記念会館」の歴史を紹介しましょう。

渡辺翁記念会館空撮写真

一個人の名前をそのまま施設名にしたところに、宇部市発展の父と呼ばれる、渡辺祐策の存在の大きさがあります。
渡辺祐策は、1864年(元治元年)、国吉恭輔の次男として長門国厚狭郡小串村嶋(現宇部市島)に生まれ、8歳のときに父が福原家の家臣、渡辺家を継いだため、渡辺姓になりました。1892年(明治25年)、29歳で宇部村会議員に当選、1895年(明治28年)に宇部村助役に就任しています。渡辺翁の最大の功績は、石炭産業を興して宇部市を発展に導いたことで、村から一躍市制(1921年(大正10年))を敷くきっかけをつくりました。
1897年(明治30年)、34歳のとき、宇部興産の前身にあたる沖ノ山炭鉱を創業、以後、渡辺翁が創業に関わった会社は、宇部鉄工所、宇部紡績、宇部セメント、宇部窒素工業、宇部電気鉄道、新沖ノ山炭鉱の6社を数え、文字通り地域繁栄の立役者といえます。渡辺翁の卓抜した先見性は、「掘りつくす運命にある石炭からいずれ無限の工業に移行する」との理念に基づき、工業用地の造成、港湾の整備等、社会資本の充実に力を注いだことに見ることができます。
翁は政治の世界にも身を置き、1912年(明治45年)、衆議院議員選挙で初当選して以来、4選を果たしたほか、1922年(大正11年)には第1回宇部市議会議員選挙で当選、初代議長に就任しています。当時は国会議員と地方議員が兼務可能とはいえ、翁の旺盛な行動力は目を見はるものがあります。
1934年7月20日、翁が71歳で死去したときは、同月25日に神原公園で市葬が行われ、多数の市民で公園が埋めつくされたと伝えられています。記念会館前の公園内には、宇部の工業地帯に視線を向けた、朝倉文夫制作の渡辺翁の立像が建立されています。花崗岩の台石8メートル、高さ4.3メートルの銅像の制作経費は、市民はもとより、小中学生1万2千人を超える生徒から集められた約9万円の浄財を充当したもので、渡辺翁に寄せた市民の敬慕の念が偲ばれます。

写真:記念公園1
渡辺翁記念公園1
写真:記念公園2
渡辺翁記念公園2
写真:銅像
渡辺祐策翁銅像

渡辺翁の死後、翁の関連した7社で、渡辺翁記念事業委員会が組織され、遺徳を顕彰するにふさわしい記念事業の選定について、検討が始まりました。検討の結果、市民会館の建設とその周囲を公園にして市へ寄贈するという案が浮上しました。1934年12月、同記念事業委員会は会館建設と公園の寄贈案を正式に決定しました。公園をあわせた用地面積は2万4714平方メートルです。ちょうど市も、公会堂の建設計画に目途が立っておらず、時宜を得た会館の建設計画でした。建物の名称は、当初「宇部市民館」が予定されていましたが、完成直前の1937年3月に「渡辺翁記念会館」と変更されました。
設計は、大阪の「そごう百貨店」で注目を集めた、村野藤吾に依頼しました。

渡辺祐策翁略歴

1864年(元治元年)
6月16日、長門国厚狭郡小串村嶋の国吉恭輔の第二子として誕生。
1871年(明治4年)
父国吉恭輔、渡辺家の家督を継ぎ、福原家の家臣となる。
1878年(明治11年)
父国吉恭輔死去し、15歳で渡辺家の家督を相続。
1883年(明治16年)
戸長役場用掛となる。(1888年まで) 翌年、係長となる。
1886年(明治19年)
5月26日、宇部共同義会創設される。
1888年(明治21年)
5月6日、宇部達聡会創設される。
1889年(明治22年)
宇部達聡会常備員に当選。五か村合併、宇部村となる。
1890年(明治23年)
堀田山炭鉱を経営するが失敗し、家計困窮する。
1892年(明治25年)
4月、宇部村会議員に初当選。
1895年(明治28年)
4月、宇部村助役に就任、同時に村会議員を辞職。
1897年(明治30年)
1月、宇部鉱業組合創設、組合長に就任。
6月1日、沖ノ山炭鉱創業。本山炭鉱、松濱炭鉱を開鉱。
8月、宇部村助役を辞職。
1902年(明治35年)
5月、沖ノ山炭鉱第1回配当を出す。
1909年(明治42年)
10月、博愛幼稚園創設。
11月、宇部電気会社創設。
1912年(明治45年)
5月、衆議院議員に初当選。政友会に入党。
1913年(大正2年)
宇部新川鉄工所(後の宇部鉄工所)を創業。
1914年(大正3年)
第二沖ノ山炭鉱を開鉱。
1917年(大正6年)
宇部紡績所を創業。(翌年、宇部紡績株式会社に改称)
1918年(大正7年)
宇部村に米騒動が勃発。死者がでるほどの大騒動となる。
1920年(大正9年)
沖ノ山同仁病院開設。
1921年(大正10年)
11月1日、市制施行。宇部村から一挙に宇部市になる。
1923年(大正12年)
沖ノ山上水道建設、給水始まる。施設は後に宇部市へ譲渡する。
1925年(大正14年)
常盤湖畔の上田孫市氏別荘を買収し、市に寄付する。(後の常盤公園)
1926年(大正15年)
宇部セメント製造株式会社を創業。
1927年(昭和2年)
宇部電気鉄道株式会社を創設。
1933年(昭和8年)
宇部窒素株式会社を創設。
1934年(昭和9年)
逝去